世界の剣道人【元剣道世界選手権アメリカ代表 ゴドガンガー・サンディ氏】

大学の稽古は本当につらかった

筆者:大学の稽古はどんなものでしたか?

サンディ氏:大学の稽古は本当にきつかったです。まず練習のやり方はわからないし、今の時代よりも稽古は厳しかったですし、こわくて泣いた日もあります。

キャプテンとか先輩に「剣道を教えてください」って頭下げて、教えてもらっていました。1年生の間は切り返しやかかり稽古だけをやっていました。その中でもPL学園の先輩とかが一番良く基本打ちを教えてくれたのを今も感謝しています。

でもサッカーをやっていたから、長時間走り回ることは慣れていたので、かかり稽古は全然疲れませんでしたね。そういうので次第に認めてもらえるようになりました。

筆者:サッカーも無駄ではなかったってことですね。

アメリカ代表選手に出会って

丸山:2年生ぐらいからやっと地稽古させてもらえるようになって、更にまた指導してもらえるようになりました。剣道というものがだんだんわかってきましたね、それでも同期の中でも、部全体的に見ても一番弱かったです。

なので、後輩にも頭を下げて教えてもらっていました。武道大には素晴らしい剣道をする人が先輩にも後輩にもいて、本当にいい環境でした。特にPL学園のの剣道が大好きだったのでPL学園の先輩後輩にはよく教えてもらいました。

筆者:PLの面は剣道の世界で有名ですよね。

丸山:2年生になってしばらくしてから、アメリカから留学生が来たんです。サンタクララで行われた剣道世界選手権のアメリカ代表選手で、彼は世界選手権の個人戦でベスト16に入った人でした。

その彼に「サンディ君もアメリカ代表になれば!」と言われ、また火が付いたんです。その子をきっかけに アメリカで剣道あることを知って、アメリカで剣道やりたいと思ったのがアメリカ代表になろうと思ったきっかけですね。

画像に含まれている可能性があるもの:17人、、スマイル、立ってる(複数の人)、室内

アメリカ代表にチャレンジ!でも予選落ち

丸山:4年生の時に、また別のアメリカの子が来て、その子と一緒にアメリカのロスで世界選手権の予選に出ることにしたんです。

日本で練習していたし、アメリカなんて余裕だと思ってなめてました。

しかし、1次予選で負けてしまったんですね。3次予選までありましたが、1次は通るだろうとなめていたんです。でも思った以上にアメリカの人は強かったです。またアメリカならではのタイミングやパワーというところにも圧倒されました。それがすごく悔しかったです。しかも一緒に受けたアメリカの子は1次予選は通ったんですよ。僕は普段その子に負けたことがなかったから、さらに悔しかったです。それがあって、「絶対にアメリカ代表になってやる!」って決意し直しましたね。

アメリカ代表になるために

筆者:大学卒業後はどうされましたか?

サンディ氏:まずは実家の方に帰りました。その時、東京で通っていた道場の先輩が、都立高校の体育の先生に就任してきて、その人に「コーチをやらんか。」と言われてコーチを半年ぐらいさせていただきました。アメリカ代表になるためにも剣道重視のスケジュールを組みました。

 高校のコーチ時代

朝から午後までフィットネスジムでアルバイト

それから3時から7時までは高校でコーチをして、

夜はホームセンターで品出しの仕事をしました。

途中から代表選手になるには稽古時間が足りないと思い、週5の朝稽古を始め、様々な先生のご指導を受けることができました。

土曜日は部活や遠征で、1年365日ほぼ剣道漬けでした。こういう生活を2年半続けました。

筆者:大学生より稽古してますね。

サンディ氏:それから、2004年の10月に次の台湾大会の予選に出るため、9月に仕事を全部やめて、10月にアメリカへ移住しました。

アメリカでは幸いご縁があって会社で働きながら、剣道をさせてもらいました。2年半の稽古の成果が発揮できて、3次予選も通って、代表に選んでもらうことができました。剣道は大学の頃より格段に良くなっていたと思います。スポンサードリンク

日本に勝った時の事

筆者:アメリカが日本に勝ったことは剣道界に衝撃が走りましたが、勝つまでにどのような練習をされていたのですか?

サンディ氏:みんな仕事があったので、メンバー全員で稽古ができたのは土日だけでした。でも平日もできる限り集まって、練習しましたね。

そして大会の時は、自分は内村選手に負けてしまいましたが、チームメイトが勝ってくれました。

勝った時は本当に嬉しかったですよ。僕は日本に育ててもらったのもあるけど、1年間アメリカでやって打倒日本、打倒韓国で本気でやってきたから、その目標が達成できました。

また、チームメイトからは勝負に対する厳しさを学びました。自分が勝つのではなく、チームで勝つということです。

筆者:どうしてあの時は勝てたと思いますか?

サンディ氏:もうチームの結束力とハートの強さとしか言えないです。技術力は日本に劣っても、絶対に負けないという強い気持ちがチーム全員にあったからだと思います。あの頃は家族よりチームメイトの方が会っていました。本当に一心同体で結束力が日本チームより強かったと思います。

韓国に勝てなかったのは残念でしたが、後悔はしていていません。

画像に含まれている可能性があるもの:Sandy Ghodgaonkar Maruyama、スポーツ、バスケットボールコート

4大会連続出場

筆者:日本に勝つという目標を達成されましたが、その後の大会*に出られたのはなぜですか?

(*2006年台湾大会,2009年ブラジル大会,2012年イタリア大会,2015年日本大会)

サンディ氏:やはり韓国に負けてしまいましたから、自分たちには何かが足りなかったんだと思ったからですね。それに2015年大会は日本で行われることになっていましたから、とにかくそこまでは出ようと思っていました。

幸い、2009年のブラジル大会もメンバーとしてまた選ばれました。その時選ばれたのも2006年の台湾大会とほぼ同じメンバーでした。次こそは優勝だと思い、さらに練習量を増やし、ほぼ毎日剣道をしていました。

筆者:お仕事もある中で大変だったと思いますが。

サンディ氏:そうですね。でもみんなもそれは同じでしたし、仕事で忙しいからとか、疲れているからとかというのは理由にしないことになっていましたし、みんなそういうことは一切言いませんでしたね。私の会社の社長は剣道を優先させてくださったので、本当に感謝しています。

筆者:脱帽です!

サンディ氏:それから大会3か月前に、みんな会社を休職して、日本合宿に行きました。その時は警視庁とか日本の大学にも稽古に活かせてもらいました。

その時の結果は決勝で日本に負けてしまって、2位でしたね。

でもやることはやったので悔いはないです。スポンサードリンク

日本武道館を最後に

筆者:4大会連続というのは、体力的にも精神的にもすごくきついものがあると思うのですが、なぜそこまで頑張れたのですか?

サンディ氏:日本は自分の母国ではありませんが、心の故郷ですし、何より自分に剣道を教えてくれた大切な国ですから、引退するなら日本がいいと思っていました。あとその時はもう子供もいたので、子供たちに自分の剣道している姿を見せたかった、世界で戦う自分の姿を見て何かを感じてほしかったというのもありました。

筆者:素晴らしいお話だと思うのですが、体の方はやはりきつかったのでは?

サンディ氏:そうですね。日本大会の時はすでに36歳になっていましたし、怪我も頻発していました。体力的にはもうすごくきつかったので、若い時より内容重視でいきました。2年間の準備の中で、韓国や日本と練習試合を行い、それをビデオで撮影して内容を分析したりしましたね。

若い時はスピードやパワーでカバーできたけど、年齢が来るとそれだけではだめなので、相手の癖を読むとか、落ち着いた試合運びをするとか、もっと剣道の色を勉強するようになりました。

さらにチームとしても負けない剣道を、チームの剣道をもっともっと意識するようになっていきましたね。

アメリカのチームでは「スーパーヒーローはいらない チームワークで勝つ」を座右の銘にしていました。

筆者:なんか日本より日本らしいですね。

サンディ氏:本当にそうでしたね。またチームメイトの家族も我々を支えてくれました。試合をする者だけで勝つのではないのだと本当に実感しましたね。チームメイト、チームメイトの家族、会社、アメリカのみんなが応援してくれました。

筆者:大会前はまた日本で合宿とかされたのですか?

丸山:はい。また3か月間休職させてもらって、メンバーで日本に行きました。

3か月間、自分は母校の国際武道大で稽古をし、メンバーはそれぞれの場所で稽古を行い、土日は筑波大学に集合して、筑波大学の皆さんと稽古をさせてもらいました。

画像に含まれている可能性があるもの:5人、、塩田 典子さん、Sandy Ghodgaonkar Maruyamaさんなど、立ってる(複数の人)、群衆、室内

筆者:恵まれた日本の環境から考えると、皆さんすごい貪欲で、求める気持ちが強いんですね。

サンディ氏:それぐらいしても足りないと思ってましたよ。

日本大会は結果として3位でしたが、心の中で引退だなあ、やりきったなあと心から思いました。大会の時、大学の先輩や後輩が応援に来てくれて・・。日本武道館の大会の後、先輩や後輩と写真を撮るのは夢だったので本当にうれしかったです。

筆者:感動的な情景が思い浮かびますね。

サンディ氏:さらに大会の後、子供が剣道を始めると言ってくれて、今やっています。

筆者:うれしいことですよね。

ご縁に感謝

筆者:サンディさんがここまで剣道をやってこられたのはどうしてですか?

サンディ氏:やはり私は縁に恵まれていたからだと思います。サッカーで怪我をしたから始まりましたが、自分が目指そうと思ったところは、いつも誰かが教え、助けてくれました。私は本当にラッキーです。

筆者:サンディさんの会社の社長さんも剣道をされているとお聞きしました。

サンディ氏:はい。うちの会社の社長も剣道が大好きで、よく一緒に稽古をしますね。世界大会に出るときも、社長がいつも快く送り出してくれました。だから悔いのない結果を残せたと思っています。社長をはじめとする会社の仲間にも本当に感謝しています。

さらに言うとアメリカで剣道を始められたのは、ロングビーチ道場の堀先生のおかげです。

日本にいるときに、先生に「アメリカの剣道大会に出たいけど、どうしたらいいですか?」って電話したら、「俺の道場に登録してやるから、来い。」と言って下さって、アメリカの予選に出れました。堀先生はアメリカの師匠です。いろんな縁があって今があるなと思います。

また栄光武道具USAにもスポンサーになってもらいましたし、アメリカ剣道普及のための防具販売を手伝わせてもらってます。スポンサードリンク

現在は指導者として

筆者:今はどこか道場などでご指導されているのですか?

サンディ氏:今はガーデナ道場と言うところで週に1,2回子供たちに指導しています。メンバーは70人から80人ぐらいです。

画像に含まれている可能性があるもの:8人、有賀 太郎さんを含む、バスケットボールコート、室内

筆者:ちなみにアメリカの剣道人口ってどのぐらいでしょうか?

サンディ氏:アメリカ人口では約6000人ぐらいだと思います。日系人や韓国系の人も多いですが韓国人が多いですが、本当にアメリカンな人も結構やっています。

アメリカの人は剣道のことを神聖で大事に思っている人が多いです。地方には有段者がいない、指導者がいない厳しい現実がありますが、そういう地方に行くほど、剣道は武道として崇高なものとして捉えられています。

最近では地方に指導しに行きましょうという動きも出ていきて、アメリカの剣道普及も発展段階という感じです。

また、アメリカの剣道連盟では、少年剣道活性化の一環として、日本の大会出場(魁星旗や道場連盟の大会)への援助をしたり、段審査もかなりの回数が行われるようになりました。

今の剣道の目標と人生の目標

筆者:今の剣道の目標はなんですか?

サンディ氏:八段を取りたいと思っていますが、今は子供と楽しくやること、子供が剣道を続けてくれることが一番ですね。それから応援してくれた自分の道場などに恩返しをしていきたいと思っています。

筆者:では、最後に剣道をやっていてよかったことを教えてください。

サンディ氏:いろんな仲間ができたこと、そして何より剣道やってて自分の人生が救われたことです。僕は勉強あまり得意ではなくて・・とにかく剣道だけはと思い、必死でやってきました。その中でいろんな人と出会い、学び、いろんな人に助けられて人生を良い方に変えることができました。

若い人に言いたいのは

「1つのことに打ち込みすぎるくらい打ち込みすぎると、大きな何かが思いもよらない形で返ってくる。」

っということです。

大学から剣道を本格的に再開した僕でも本気になれば世界の代表になれました。

何かを叶えたかったらやりすぎるぐらいにやってほしいと思っています。

筆者:まさに「一念岩を通す」ですね!きっとこれから活躍する若い人の励みになると思います。ありがとうございました。

画像に含まれている可能性があるもの:Sandy Ghodgaonkar Maruyama、スポーツ、バスケットボールコート